ショートSF「青紫のクリスタル」

ショートSF

青紫のクリスタル

 ここに一枚の紙がある。

 そこにはある模様が黒一色で塗られている。
 
 人の形に見える。

 しかし、白地に何かを見る人は誰もいない。

 われわれには、「黒」の「形」は認識できても、「白」の「場」は認識できないのだ。

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 数年前、遠くに住む友人から、みやげにクリスタルの文鎮をいただいた。

 それは丸く小ぶりの蜜柑くらいの大きさで、形もむいた蜜柑とよく似ていた。

 中に青紫のクリスタルがあり、それを透明なクリスタルが包んでいた。

 文鎮ゆえに外側の透明なクリスタルは底が平たい。

 その底部から12個のなだらかなアールの房が立ち上がり、頂で一つになっている。

 上から見ると菊の紋章のようであった。

 友人はこのみやげを渡すとき、彼にこう話した。

 「これは故郷の伝説を伝えるために作られた特別な工芸品です。実は青紫のクリスタルの中には故郷の深海水が入っています。私たちの伝説では「海」それ自体が生命体と伝えられてきました」

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 友人の話はいつのまにか忘れてしまっていたが、この文鎮は彼のお気に入りだった。

 ただし文鎮として使うことはなく、手のひらで握るとその凹凸がとても心地よいので、もみ玉として愛用していた。

 ある晴れた冬の午後、サンルームで読書していた彼は、暖かい陽をもっと浴びようとレースのカーテンを開けた。

 冬の陽とはいえ、金色の光線はさすがに直視するにはまぶしすぎた。

 ふと彼は握っていた文鎮をサングラスがわりに太陽に当てて見た。

 その時彼は初めてこの文鎮に入れられていた深海水の姿、、、を見た。

 青紫のクリスタルはサファイヤのごとく光り輝き、その中で、深海水がまるで、、、大海のようにして、生きていたのだ。。。

 しかもその中心部では、赤と青の微少なドットが深海発光生物のように、たえず形を変化させながら点滅していたのである。 

 それは発光する楽譜のようにも、SF映画に出てくる宇宙船のコンソールのイルミネーションのようにも見えた。

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 彼は友人の話を思い出し、すぐに直感した。

 これは「海」という生き物の姿なのだ!

 地球の生命体とは、実は「海」であり、われわれはその泡沫にすぎないのだ。

 海には前世も来世も輪廻もない。

 彼らこそ無限の生命なのである。

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 明治時代、ラフカディオ・ハーンは自らの体験記として、このことを深い思索と美しい文章で著していた。

 小泉八雲集「焼津にて」より

 ・・・この海岸には、「海には魂も耳もある」という言い伝えがある。意味はこういうわけだ...

 「海をこわいと思うとき、そのこわさを、けっして口に出してはならない。こわいことを口にすると、波は急に高くなる」...

 いま、こういう想像は、まったく自然なようにわたしには思える。

 海で泳いでいるときとか、あるいは舟にあるとき、海は生きものではない、意識のある、敵意をもった力でない、とはどうしても思えないことを、わたしは告白せざるをえない。
 理性は、当面、こうした空想に対してなんの役にも立たない。

 海をたんなる水の塊にすぎないと思うためには、押し寄せる大波もゆったり寄せるさざ波としか見えぬような、高いところに身を置かねばなるまい。

 しかし、この原始的な空想は、白昼よりも夜の暗闇のときのほうが、さらに強くかき立てられるかもしれない。

 燐光を発する夜、潮の流れが明滅するさまは、いかにも生命あるかのようである。...

 その冷たい炎の色合いが微妙に変わるのは、まるでは虫類のようである!

 こんな夜の海にもぐって...青黒い暗がりのなかで目をひらき、からだの動きにつれて不気味に光のほとばしるのを注意して見るがいい。

 海の流れを透して見える光を発する点の一つ一つが、目を閉じたり開いたりしているようである! 

 そんな瞬間、まるで、なにか巨大な知覚力につつまれているような...どの部分も同じく感じ、見え、意志をはたらかせている、なにか生命に満ちた物質のうちに...無限の柔らかい冷たい「霊」のうちに、浮かんでいるような気持に、実際なるのである。・・・