ショートSF「胡蝶の夢なり近未来(レディプレの世界)」

ショートSF

胡蝶の夢なり近未来(レディプレの世界)

(タイムマシンの存在)

 タイムマシンは現実に存在している、と言っても信じない人が大半である。

 ところがそれは大いなる誤解で、現代においてタイムトラベルは当たり前に出現しているのだそうだ。

 実は、飛行機(いや新幹線でもいい)に乗っている人は、そうでない人より少しだけ未来に行っている。

 これは相対性理論から導かれる「当たり前のこと」らしい。

 ということは、飛行機などの高速移動体をタイムマシンと呼んでも間違いではないということになる。

 未来の高速宇宙船ならその差は大きくなり、「猿の惑星」のごとく帰還した地球は数千年後の未来だった、というのは疑うべくもない科学の常識である。

 ところが、これらのタイムマシンには重大な制約があるという。

 それは、未来には行けても決して過去には行けないということである。

 つまり、鉄砲玉のごとく前にしか行けない一方通行なのだ。

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(「レディ・プレイヤー1」)
 今から30年前、2018年の初夏、当時の人気映画監督スピルバーグ氏による刺激的な作品が全世界で話題になった。

 その映画は「レディ・プレイヤー1(ワン)」というタイトルだった。

 ゲームオタク(当時はバーチャル世界に生きる住人はごく少数派で、少し軽蔑を込めてこのように呼ばれていた)向けのマニアックな近未来SF娯楽映画だった。

 しかし、実はそのように見えただけだったのだ。。。

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(あり得べき未来)

 2018年のその頃、私は40才だった。

 近所の映画館で小学6年生の息子と観た6月の日曜日をはっきりと思い出す。

 館内には70代以上とおぼしき夫婦連れもけっこういて、こんな映画をなぜ?とびっくりするのだが、暇をもてあましている老人は手当たり次第に新作映画で時間つぶしをしているのかもしれない。

 それに年寄りだからSFやCGと無縁というのは大きな勘違いであることだろう。

 この方々は10代後半から20代の頃には「2001年宇宙の旅」を、30代の頃には「スターウォーズ」を見てきたはずだ。

 私の膝上にはバケツ並の大きい紙容器に入ったポップコーンが置いてある。

 本編が始まる前から私と息子はバケツに競うように指を入れ、ノンストップでほおばり続けていた。

 私はこの映画を子供やオタク向けの軽い映画だろうと高をくくっていた。

 腹がくちてきたこともあって少しうとうとしてきたが、変化の激しい画面のうねりのなかにかろうじて目を漂わせていた。

 映画は進み、バーチャルの中で現実世界そのものが再現され、どちらが現実かわからないという場面に来た。

 ここで突然、あることに気づき意識が覚醒した。

 これは「あり得べき未来」だ!

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(生きる世界を拡張した未来社会)

 原作者およびスピルバーグ氏は、どんな方法を使ってかは知らないが、きっと30年後の未来を見たに違いない。

 そして理由は不明だが、わざと子供向けにしてその真実性をカムフラージュしたのだ。

 もしかしたらその未来を自身受け入れ難かったからかもしれない。

 覚醒したとき、私はスピルバーク氏らと無意識のあるチャネルで周波数が同期したらしい。

 そして悟ったのだ。

 これは「過去行きタイムマシン」の実現方法を描いた映画なのだと。

 さらに、「リアルとバーチャルを行き来しながら個人の生きる世界を拡張した未来社会」の現実(?)を見せた映画なのだと。

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(2048年に生きる私)

 2048年の今から見れば、あの映画に出てくるゴーグルやセンサージャケット、ワイヤーは実にレトロである。

 実際に今使われているのは、普通のメガネやTシャツと寸分違わない。

 だからこそ、いつでも自由に二つの世界を行き来できるのだ。

 さて、私のゴーグルスイッチを切り替えて、2018年のバーチャル世界に戻ってこの話を語っていくことにしよう。

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(切なき思い出の過去)

 なんという懐かしき過去であることよ。私は30才も若がえって生活している。

 この世界では40才の私と、リアルの世界では70才の私。。。

 街並みも走っている車も当時のままだ。(この頃は自動運転がまだ実験段階だった)

 実家に行けば、リアル世界ではとっくに亡くなった父も母も元気に暮らしている。

 母のつくってくれた煮付けで一緒に食事しながら、興したばかりの会社のことを父母に聞かせている私。

 意識の片隅にいるリアルの私の胸はとても切ない。。。

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(優しきフェイク)

 この映画から30年後の時代、リアルとバーチャルの二重生活に慣れるのは、はじめはどんな人でも大変だった。

 しかし、だれもがこの二重世界にはどんな苦労にも値する価値があると心底感じた。

 過ぎ去った時代、失った世界に再び、いや何度でも戻れるのだ。

 単なる傍観者としてではない。亡くなった親や友人たちと会話さえできるのだ。

 なんという幸福だろう、と感じる人は歳をとった人ほど多かった。

 事故や病気で寝たきりになった人にとっても、バーチャルの世界で再び動き回れる喜びはかけがえがなかった。

 別な人生を歩みたかったと悔いる人たちも、バーチャル世界でやり直す喜びが得られたことは幸いだった。

 すべてはフェイクに違いない。

 しかし、リアルに居ながらリアルをバーチャルで補い幸せを手助けする「優しきフェイク」であったのだ。

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(生みの親は超VRと超AI)
 なぜこのような世界が可能になったのか、それは二つの技術の驚異的進化と結合による。

 一つはVR(バーチャル・リアリティー)、これは視覚、聴覚のみならず触覚、嗅覚、味覚つまり五感を再現できるまで進化した。

 脳にパルスを送る特殊なセンサーネットキャップ、皮膚感覚をコントロールするセンサースーツによって実現した。

 生物は生来の目や耳などの感覚器が脳に刺激を与えて意識を形成するわけだが、そこに別な外部感覚器が追加されたに等しいことであった。

 脳の神経細胞に直接化学的作用を及ぼすわけではないので、ドラッグなどよりはるかに安全であった。

 もうひとつはAI(人工知能)の爆発的進化である。

 たとえれば、世界中の図書館、大学の研究論文すべてを飲み込みつくし、消化し、栄養とし、推論し、発見し、構築する宇宙規模的人工生命体が出現したのである。

 AIは過去現在にわたる個人の写真や記録などの無限ともいえる膨大な情報も、いっときの休みもなく貪欲に飲み込みバーチャル世界を構築していった。

 あたかも大鯨が巨大な口を開けてオキアミを一気に飲み込み、さらに巨大化しながら地球の大海を泳ぎ続けるようである。

 超VRと超AIが結合したとき、それは過去の世界をリアルのごとく現出できるタイムマシンができたということなのだ。

 つまり過去へのタイムマシンは物理学とか熱力学的原理ではなく膨大な情報処理とディープラーニングという技術により実現したのだ。

 物理学的・熱力学的原理に拠らないということは、現在、過去、未来への相互影響、パラドックスとは無縁ということである。

 いわば「夢」と同等の世界なのである。

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(夢とともに生きてきた人類)

 考えてみれば、私たちはだれでも昼(覚醒中)と夜(睡眠中)二つの世界に生きていた。

 亡くなった人の思い出の写真や記録、過去の書籍などを通して、過去を己の想像力によって現前化させていた。

 どんな国でも社会でも昔から霊媒や巫女がいた。

 彼らの力を借りて亡くなった家族や友人と再会し、心を癒やされる人々は多かった。

 それと同じことがよりリアルに実現できるようになっただけなのである。

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(二つの世界を行き来する)

 自分が何者かわからなくなる倒錯した世界のように思う人もいるだろうが、実はそうならないための制約は存在する。

 それはバーチャルの世界でもリアルの世界でも一人は一人なのである。

 「レデイ・プレイヤー1」の設定のごとく、人は自分の選んだたった一体だけのアバターを分身としてバーチャル世界を生きるのだ。

 さらに、リアルとバーチャルは常につながっていて、バーチャルに生きている自分を認識するリアルの自分が常に意識の片隅に存在している。

 何よりも「食う」「寝る」「出す」はリアルでしかできない。それが究極の命綱となっているわけだ。

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(2048年の学校)

 2048年の学校についても話しておこう。

 バーチャル・リアリティーは教育、特に歴史の学習に革命を起こした。

 原始時代にも奈良時代にも江戸時代にも、ピラミッドの時代にもまるで修学旅行のように行けて、さらにその世界をほぼリアルに体験できるのだ。

 なかでも、戦争時の疑似体験は効果がありすぎて、ほとんどの学生は言葉にできない強烈なショックを受けた。

 数十年前なら良質の映画や文学だけで感じることができたであろうことが、等しく誰でもが感じられるようになったのだ。

 様々な時代、様々な世界を現実のように体験するなかで、歴史は時を経るほど豊かで価値ある世界になっていく、という考えを持つ者は少なくなっていった。

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(ホモ・サピエンスの終焉)

 病院や老人ホームではバーチャル世界は何よりの薬であった。

 人生の最後の時期に、自分が過ごしてきた思い出の世界に戻り過ごせる。これほどの幸せはないことだろう。

 脳がまだしっかりしている老人なら、アバターを通してもう一度そうありたかった人生をも生きられるのだ。

 まるでかつてのSF映画「マトリックス」のように、人類が電脳に飼育される繭(まゆ)となって仮想現実に生きている世界を想像するかもしれない。

 それは全く違う。

 リアルの世界は橋のこちら側、バーチャルの世界は橋の向こう側のようにつながっており、その橋がいわば彼岸と此岸を分けていることを誰もが理解しているからこそ、この二重世界はなり立っているのだ。

 とはいえ、未来はやはりマトリックスの世界になるのかもしれない。

 しかし、2048年の世界ではそれを受け入れてもいという人が増えているのも事実だ。

 そのときホモ・サピエンスはホモ・サイエンスまたはホモ・エレクトロニクスと称されるのかもしれない。

 進化というのは最初実に異様に見えるものだ。

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(荘子の「胡蝶の夢」)

 二千数百年前もの昔、荘子はこう書いた。

 「私が蝶になった夢を見ているのか、蝶が私になった夢を見ているのかわからない」

 まさにリアルとバーチャルを行き来している世界である。

 今はまさに荘子の「胡蝶の夢」の時代である。

 もしかしたら私たちの世界は大昔から今、そして未来においても何ら変わらないのでは、と思う。

 映画の中で、レディプレのバーチャル世界「オアシス」をつくった亡き天才が、仮想現実世界で主人公にこう語った。

 「現実でしか、美味いめしを味わえないんだ」

 時代はいかに変われども、この言葉にこそ人間の限界と救いがあるのかもしれない。

人工知能SF姉妹編 
1.→哀しき人工知能
2.→人類史上最大の作戦
3.→人工知能の帰還
4.→人工惑星ゴースト
5.→クラウドの惑星
6.→人工知能と地球生命体