ズボンの虫食い穴

ノボ・ショート「ズボンの虫食い穴」

 晴天の元旦もまもなく暮れようとする頃、高台にある地元の温泉施設に来た信吉は、駐車場で車を降りられずにいた。

 四十九日前に父が最期を迎えた公立病院を見下ろせる場所に、偶然車を駐めたからだった。

 フロントガラス越しに病院の窓をひとつひとつなぞりながら、看病していた時、逆にここを見たのはどの窓からだったろう、と記憶をたどっていた。

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 信吉は毎月一度父を乗せてこの病院に来ていた。

 帰りに少しドライブし、蕎麦やうどんの昼食を食べるのが二人の楽しみだった。

 一年ほど前のある情景を信吉は思い出していた。

 「おじいさん、また虫食いズボンはいて!何回言ったらわかんだべな〜」

 信吉は92歳になる父をまたも叱っていた。

 信吉の父は昔気質の人で、病院に行くときは必ず背広にネクタイをしめる習慣だった。

 ところがたくさんある背広のうちお気に入りの一着だけしか着ないのが信吉の悩みであった。

 そのズボンには虫食い穴があって白の裏地で穴が目立ってしまうのだ。

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 信吉は急いで実家の二階にあがり別な背広をさがしたが、なかなかまともな服が見つからない。

 このままじゃ予約の時間に遅れてしまうと思った信吉はあることを思いついた。

 (穴をマジックで塗れば裏地が黒くなるので目立たなくできるぞ!)

 信吉はさっそく玄関でのんびり立っている父のズボンの穴に黒マジックを塗った。

 父は何も言わず信吉がしたいようにさせていた。

 マジックを塗り終わり、これで目立たなくなるはずだった。

 だが、白い穴は同じだった。

 信吉は変だなと思い、もう一度塗ってみたがまた同じ。

 調べようとして父にズボンを脱がせたら、なんとズボンの下にはいていた白い「ももひき」に黒い丸がついていた。

 白く見えたのはズボンの裏地ではなくてももひきだったのだ。

 一人であきれ笑いをする信吉を見ながら父は「そろそろ行くべしや」とやんわり言うのだった。

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 信吉には、父に対してそんな申し訳ない思い出が数限りなくある。
 
 亡くなった今にしてやっと、そんな時の父の気持ちがしみじみわかってきたのである。

 温泉を出た後外はもう夜、病院の窓は静かなオレンジ色の灯をともしていた。

 強風にあおられ駐車場を歩く信吉は煌々たる満月をあおいだ。

 そして四十九日の今晩、父は風になり光になり、宇宙というあの世へ旅だったのだ、と確かに感じた。