未来列車アインシュタイン号 第2話

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2015年5月に行った北上山地「種山が原」

ショートSF

未来列車アインシュタイン号 第2話 

(前回までのあらすじ)
時は2050年、人工ブラックホール生成を目的とした世界最大の加速器が北上山地の地下に建設された。その資金を確保するため地上には「銀河高原ワープランド」というレジャーランドがつくられた。研究の中で加速器がタイムマシンに応用され「未来列車アインシュタイン号」という名で一般人の未来旅行が実現している。


実験段階では数年先への片道切符であったが、50年先に飛んだパイオニア時間旅行士が3日後「未来の技術で現在に帰還した」ことにより、未来への往復旅行が可能になったのである。しかし帰還した者は記憶がリセットされていた。その代わり未来は彼らに実に少量であるがみやげを持たせた。それは未来社会の様子をうかがわせる映像情報であったが、良きにつけ悪しきにつけ様々な憶測をよぶこととなった。

 →未来列車アインシュタイン号 第1話 

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今の世界は未来からの「おみやげ」で大いに混乱している。どうやら未来社会が一つではないようなのだ。

 

「未来列車アインシュタイン号」の終点は50年先の未来である。その終点へはすでに何組かの時間旅行者が行って帰ってきた。つど現在の機器で見ることができる3Dホログラムの映像情報のみやげを持ち帰ったが、ほとんど同じ時期の未来のはずなのに世界の様子が異なるのだった。

 

最初と次の未来旅行の映像はドーム都市群だった。地上だけでなく海底にも群生のように多数存在していた。空にも多くの巨大な浮遊物体が浮かんでおり空のドーム都市のようであった。空、地上、海それぞれの間にときおり現れる激しいスパークはなにやら不安を感じさせた。

 

ところが3回目に行われた未来旅行の「おみやげ」には別の3D映像があった。地球のあちらこちらを映しているのだが、現在よりも「大自然そのまま」なのだ。さらに文明の象徴「われらの都市」が見当たらないのである。とはいえ「安らぎ」を多くの人が感じたのも事実である。

 

ドーム都市群の人工世界と安らぎの大自然、なんと真逆の映像であろう。それは現在の人々にさまざまな憶測をよび社会的不安さえ生じてきた。「未来社会は何らかの理由で私たちに真実を隠しているのではないか?」「未来社会は多元宇宙ゆえ未来旅行のたびに別な未来へ行っているのではないか?」「在りようが異なる様々な地域を映しているのではないか?」「私たちは彼らの創作映画を見ているのではないか?」などなど。あげくの果てに、「未来列車アインシュタイン号も巨大加速器も嘘で塗り固めた策略ではないか?」という声もあがってきた。やがて本来の目的である加速器による研究の雲行きも怪しくなってきた。

 

プロジェクトを率いる科学者たちは大いに悩んだ。そこである方法を考えついた。それは現在から未来へメッセージを送り、自分たちの「とまどい」を未来の子孫へ伝えるというものだった。その前提に、私たちは彼らのルーツであり存在の必要条件であるはずだからきっと解決の糸口を示してくれるはずという思いがあった。喩えれば田舎に住む老親が都会へ出た息子に街の様子を手紙で聞くようなことといえなくもない。しかし結果は変わらず未来の「おみやげ」の中身はそのつど違った映像であった。

 

さてこの答えはわれわれの日常経験で十分わかることなのであった。暗闇の中、懐中電灯で前を照らしてみよう。距離が遠いほど光束は広がり、しかも像はおぼろげになっていく。巨大加速器によるタイムマシン「未来列車アインシュタイン号」も同じなのである。未来へ進めば進むほど確率の雲は厚くなり、未来は不確定つまり多様な未来の可能性が増えるということになるのである。

 

実に簡単なことなのだが、科学者といえども、無意識に過去・現在・未来を走りつらぬくのは一本の矢というイメージから抜け出せないのであった。ようやく彼らも「時間」というものが「確率の雲中に光る事象の点滅」に他ならないと理解したが、それでも感覚の切り替えにはとても苦労したようである。

 

ということで、未来社会の「おみやげ」はすべて事実であり、未来は無限にありうるのである。多くの人が毎回異なる未来を知ることなど無意味でないかと思うようになった。しかし、プロジェクトリーダーのアルベール寺田は賢明であった。天は時々このような傑出した人物の姿を借りて現れ、われわれ烏合の衆を破滅から救ってくださるのだろう。(いつまでも続く保証はないが)

 

彼はこのように理解し人々を説得した。「私たちが大人になるときを考えてみよう。私たちは未来の自分を様々な大人の姿を見ることによって予想し、無意識に軌道修正をしていないか?もちろんその結果の善し悪しは人それぞれだろうが。さまざまな未来の可能性を見ることができるというのはまさに私たちにとっての教師かつ反面教師であり、これほど私たちに必要な情報は他にあるだろうか?」と。

 

私たちにもたらされた未来からの「おみやげ」とは「決定した未来」ではなく「あり得べき未来」なのだ。私たちの世界の変化がそのつど未来を変えていたのだ。そういえば未来の映像がドーム都市から大自然の映像へ変わった頃、現在の社会では原子核反応を利用した巨大施設の重大な事故が続発し、ついに別な道を歩まねばと人々の心が変化したときであった。その人々とは一般人ではなく政界、経済界の重鎮たち、いわゆる影響力の強い人たちのマインドというか感性に変化が表れた時期と一致していた。

 

アルベール寺田はこう説明している。懐中電灯の光は持ち主が向きを変えれば別なものを照らすだろう。それと同じで私たちは行きたい方向に向けて懐中電灯の照らす場所を変える。そこに前とは違うものが見えるのは当たり前のことである。未来はあるのではなく私たちが選ぶ、あるいは創るものなのだ。これを知っただけで未来列車アインシュタイン号の役割は十分果たせたと思う。

 

それ以降、未来列車アインシュタイン号は現在がどのような未来につながるかを見る時空望遠鏡として大いに役立った。この物語は今後、列車が到達した様々な未来を見ていくことになるだろう。それは現在の私たちの「心」を見ることでもある。